昭和42年04月28日 朝の御理解
自分自身の正体が分かる時、自分自身の正体を分からせて貰う時、そこからいよいよ私の様な者がいう。お道の信心も命と言われる実意丁寧神信心、いわゆる謙虚な姿と言った様な物は、自分自身が本当に分かって来る所から頂けるのじゃなかろうかと、こう思います。もう自分自身が分かって参りますと何と申しましょうか、幻滅を感じる様なようもようもこう云う様な自分が。
ようもようも此の様な性格の私がここまでの神様のお育てを頂いて、ここまでおかげが受けられて来たものだと思わずにはおられません。自分が一生懸命努力しておる、自分が是だけ頑張っておる、自分は是をこう、自分がという我が出る時信心の本当の本当の値打ちというか、そういうものが欠げてまいります。信心とは愈々自分の正体を突き詰め、突き詰める事だと思いますですね。
そこにはですね、不平不足を言う事ではなくてですね、不平不足だんじゃない。そこからしみじみとした信心が生れて来る様ですね。そこから信心が生れる。しみじみとした信心が、そしていよいよ謙虚、いよいよ実意にならせて貰ってお縋りをせねば居られない。そこから私は信心の有難さと、信心ちゃ有難いものだなあと云う事をいよいよ分からせて頂く様な気が致します。
中々教えは鏡だと、教えを頂きますと、教えの鏡を前に立てさせて頂きますと、自分がはっきり分かるとこう、言いもし又思いもしておりますけれども、しかし本当の事はですね、分からないですね。本気に自分が頂く気にならなければ。私はもう思いますのは、自分の周辺に起きて来る事柄とか、自分の周辺に起きて来る人達の姿とか、言うならば、一番身近な家内とか親とか子供とか、と言った様な者の姿の中にですね。
自分の正体が出ておる事が、御座いますですね。あれが私の姿なんだから、そして本当に幻滅を感じます。はぁもう本当に思うですね。宗教的一つの良心と、いう様な事を申しますね、あの親鸞ですね、浄土真宗の宗祖であるところの、親鸞がもう八十の、やがて九十にも成られる頃に、自分は日本一の大悪人だと、自分の正体を、ギリギリ見極められていますですね。
教祖の神様でも無学の百姓で何にも分からない相変わらずという謙虚な姿になっておられます。そこにはその不幸もなからなければ不足も無いのです。どころか、そこからしみじみとした宗教体験が生れて来るのです。信仰体験が生れて来るのです。私は思うですね、本当に自分の様な者がと気付かして頂くという事。信心の私は本当に有難い信心とは、有難いという事は自分の正体というものを。
本当にはっきり見極めるすべを教えて頂く事だと思うんです。成程ご利益という言葉が御座いますね。お道じゃ、それをおかげと申します。成程縋れば願えばですね、おかげが受けられますですね。無い命でも助けて貰い。開けん道でも開かして貰い。どうにもでけない人間関係のもつれにもつれた事すらが、それこそ梳櫛で梳いた様に、なんと神様の御働きというのは、万事万端の上に抜け目がないのだろうかと。
本当にすばらしいタイミングであろうかと、いうようにお繰り合わせが頂けれるもんなんです。けどもそれだけが信仰であるとすると、私は問題であると思うですね。そこから宗教的じょうそうとか、宗教なくば頂けない味わいである。真に有り難いというもの、は生れてこないと思う。悲しい時の神頼み、それが信仰だというふうな考え方だったら大変だと思うんです。
昨日も丁度、久留米の大祭を奉仕致しましたから、帰らせて頂きました。奥に引っ込んで一服しております時に、ここへ村内の方が二人でお願いに、ある事をお願いに見えとるところという訳です。ですから、どうぞ奥に丁度、堤さん親子が二度目のお願いに来とる時で御座いました。話を聞いて見ますと、実は今朝から私の方の十二歳になります息子の子が、言わば行方不明になっております。
学校に行っとるとばかり思うとったが学校じゃない。さあそれから大騒動致しまして。村内の方達が皆探しに掛られたんです。ところが要として、その行方が分からない。もうこの近所の川という川は、ずうっと、その川にでも入っている事はないかと探したんですね。とうとう夕方になって、その行方が分からないもんですから、金光様なっとん行ってからお願いしてこうという事になったらしいんです
。部落の方が付き添うてお願いにみえました。お願いをさして頂いて、ところがその心配になる事はないのです。人間というものはいよいよの時に最悪の事を考えるのです。そこに人間の弱さがあるのですね。そういう時に真の信心を頂いておればです、成程心配になるから心配する心で信心せよと仰る神様に打ち向う、お取次を頂くお願いをする。親先生が心配いりませんよと、仰って頂いたと安心がでける人とです。
先生は心配するなと仰るけれど、こげなこつが心配せずにおられるもんかというて心配する人ある。お願いをしたら心配はここにおいて帰るもんなんだ。そこには心配な事、お願いに来とって、その心配を、又持って帰ろうとしておる。そこで心配要りませんよと。私が、そうですか、て、なんかこう附に落ちない感じ。そこで私が申しました。そんなら、あの合原さんという方ですが。
合原さん、あの安心がでける様にお願いしましょうね、と申しましたら。はぁそうして下さいと云う事で御座いました。私の座っとります奥の籃胎漆器の応接台が御座いますね。目の上にテーブルセンターが置いてあります。あれに唐草模様の模様の入ったテーブルセンターが置いてあります。その方が川の方を探しました。けれども、という時に、そのこうなっておる下が上にこうなっている、その上の方を頂くんですね。
そしてその上の方からこう丁度別れ道になっている、そこの焦点の所へ降りてくる所を頂くんですそれで私は申しました。安心がでけるようにねお願いいたしましょう。それから七時の御祈念にもう九時ここに出て参りましたら母が、今の村内の方がお礼に今帰り道でいます。川じゃなくて山の方でそれが草野の方へ下って来とるところだった。ここの中村さんとか田中さんなんかがあぁして熱心にお参りに来ますから。
もうそのすぐ自分達の事としてお礼に出て見え、先に田中さんがお礼に出て見えました。それで私が申しましたんですね折角信心さして頂くならばです。先生が心配いりませよと言わば先生があぁいうて頂いたから、親先生があぁ仰ったからとこう安心がでけれる所迄信心を進めとかにゃいけませんよ。信心はしておっても先生は心配するなち言いござるばってんそう心配せん訳にはいかんと心配したら値打ちがないではないか。
そこに私は日頃の信心がいるんだ。先生が例えば、信心というものを矢張り知っとかなければいけない。それを私を信用がでけない所にやっぱ、私が言うても不安なのである。例えそれが心配はいらんと言われて、それが例えばその事でも三日経っても四日経っても。 例えば要として行方が分からん、帰って来ないというても心配せんで済むだけのおかげを頂く事が、私は安心の大みかげだと、こう思うのです。ね、
お互い安心の、おかげを目指しての信心。ところがです、昨夜御祈念を終わらせて頂いて下がりましたら、田中さんともう一人の部落の方が、お礼参りして来ておりました。もう今日は選挙の事と、その事でもう実に、てんやわんやで御座いました。と、それで私はもう親先生に、お願いしとるけん安心ですよと、こうその申しましたら、親先生どげん言いなさったですか。
それがあんた心配するなち言いなさった。次にあの、安心がでける様にお願いしましょうねと仰った。あ、そんなら心配なかですよ。もう安心ですよと言うけれども、それはやっぱ心配である。そしたら村内のある方が、その田中さんに言われるんですね。今帰って見えてから安心のでけて、かくの話なんです。そればってん、あんた、先生あんたどこにおるち言わっしゃれんやったもんと言われたそうです。
まるっきり金光様の御信心をね占い師の様に思うとる。しかしそう云う事を信心だと思うとる様な人があるのです。例えばどうでしょうそりゃ山に居りますよ川に居りますよと言うただけで山から降りて来なかった、何処さん行ったか分からんならどうしますか。病気でもそうでしょうが。あぁようなりますようなりますじゃいかんでしょうが。帰らんもんでも帰るように良くならんものでも良くなる様に願うのが信心なんです。
それがおかげなんです。ようそう云う事を言う人があります。まあだ子供がお腹にある時、先生お名前を下さいとこう言う。成程天地の親神様ですから、腹ん中位は見通しです。何処へ頭があるか分からんなさらん筈がないのだけれども、それを言うたからと言うて、信心が有難いのでもなからなければ分からないのでもないのだと。男であろうが女であろうが、本当に有難いと。
そういう例えば、椛目でお腹中でお名前を頂いた人が何十人あるか分かりません。神様が教えて下さると云う事の場合にはです、それは、私共が求めて聞くものではないです。それで私は、その田中さんに申しました。そうたい、どこに居ると云う事は言わなかったけれども、そう云う事が、金光様の御信心という風に、間違えられたら大変ですからね。と申しました事で御座いますけれども、信心が又元へ帰ります。
お道の信心とはそういうものではないのだ。いよいよ日々が喜びと安心の生活がでけるという事なんだ。ね、為には私共は限りない実意を尽くさして貰い丁、寧をモットーとさして貰い、限りない美しい心を求めさせて頂いての信心。為にはです、限りなく美しゅうならせて頂く為にです、信心は日々の改まりが第一と仰る、その日々の改まりを目指す為にです、私自身の正体を知れていう事なんです。
自分自身の正体というものが分かった時にです、とてもとても、もう恥ずかしゅうてね、ようもようもこういう私に、ここまでおかげを神様が下さったもんだと思う位なんです。自分が分からんから不平が出る。自分の正体が分からんから不足が出る。そういう自分の姿というものをです、例えば自分の友達に、裏切られたと言う様な事を言う人があります。もう本当に( ? )向いて唾吐きよる様なもんですよ。
自分が有難うて信用しとったら、あれから裏切られた。結局あなたの正体がそれなんだ。子供が言う事を聞きません。自分は立派で子供だけが悪いようないい方をするんです。けれども、それは自分でそれこそ上を向いて唾を吐いとる様なもんなんです。そして自分のよかつのごと思うとる。そこにはです。宗教的喜びと言う様なものがないです。世の中から生仏様の様に言われなさった。
親鸞上人さんですらがですもうお年九十と言われる、晩年に至ってから自分の様な詰らない自分の様な、それこそ日本一大悪人だと悟っておられるのです。そこが言わば深い深い喜びが頂けれるのです。そこから今まで夢にも思わなかった様な、おかげが頂けれるのです。自分自身の正体を私は突き止めると云う事が私は信心だと思うのです。そういう姿をがです、自分の子供の中に、家内の中に、親の中に。
自分の家中の姿の中に、自分の周辺に起きて来る所の問題の中に、自分のそういう汚い、正体が表れておるんだという事なんです。ね、そういう私はおかげを頂かして貰うて、所謂地を低うするというか、自分の様な詰らんもんがという時に。地を低うせずにはおられんのです。そこにあの人は実意丁寧な人じゃ、あの人は腰の低い人じゃと云う事にも成って来るのじゃないでしょうか。
そこから人徳は自ずと付いて来るもんだと思います。ね、そういう在り方に神様の前に、平身低頭お詫びし抜かせて頂き、障子一重がままならぬ私共じゃ、人間凡夫の事で相分かりませず、どこに御粗末ご無礼があるやら分からないという姿勢を持って、神様に向かう所にです。神様の御信用である所の、御神徳が頂け、人徳が得られ、神徳を受けさせて頂いて、この世の中を有難い勿体ないという、おかげの中に
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